普通でない環境では、知性は育たず、普通に育つのは難しい。
私達人類は、約500万年前にチンパンジーなどの類人猿から分離して進化してきたと言われている。
ヒトは、人間の脳は、この長い歴史の中で発達してきたと言える。
ところで、私達の現在の生活を見回した時に、便利な電化製品に囲まれ、自然が少なく環境ホルモンの脅威、コンクリート製の住宅、核家族化や少子化がすすみ、近所付き合いが少なく、学校ではケンカも無い、言っても聞かない悪ガキに対して教師も手をあげられずこまねいている(別に暴力を肯定しているわけではありません)、等々、これはどんな環境なのでしょう?
現代人としては、普通の環境(?)なのか分からないが、人類という動物的観点から見た場合は、このわずか数百年の劇的な環境の変化は普通とは言えない。
社会的知性や感情的知性を省みた場合、近年、とくに若者の、これらの知性の未熟が指摘されるが、複雑な人間関係のない養育環境(つまり、核家族化、少子化、同類の集団、過保護、又養育者自身もそのようにして育った等)が一因であると言われている。
言語的知性の普通でない環境は、オオカミ少女の例を参照。
日本は、かつては世界的にも知能や知性が発達している民族と言われていました。それは、貧しいながらも礼節を重んじ、人情味があり、手先が器用で勤勉だった民族性が幸いしたのかもしれません。
昔の日本は、一般的には貧しく大家族でした。厳格な父親と優しい母親。母親は子どもをおんぶしながら家事に追われ、子どもの世話を年長者の兄姉がしたり、テレビやゲームなどが無いので外で近所の多種多様な子ども達と集団で遊んだり、家の中では折り紙やあやとりなどをして遊んでいました。クーラーなども無いので風鈴の音で感覚的に涼をとり、四季の変化を情緒豊かに楽しんでいました。また、悪さをすれば教師や近所のおばさんなどが当たり前のように叱りつけました。
この一見貧しい風景は、よく考えると脳には良いことだらけです。
例えば、欧米は「だっこ」ですが日本は「おんぶ」です。これを子ども視点で見ると、だっこは見慣れた自分の母親や空くらいしか見えない刺激の少ない世界です。一方、おんぶは肩越しからの視界ですので多様な外界の刺激が目に入ってきます。買い物などでの八百屋との値引き交渉、近所の人との井戸端会議など、多様な喜怒哀楽の情報が自然と入ってきます。
さらに、創意工夫で遊ぶこと。折り紙やあやとりなどは、1枚の紙や1本の紐といった2次元のものが鶴やホウキのように立体的なものになるなど、遊びながら知性を育てるにはもってこいです。
これらが総じて、各種の知性を育て、ひいては普通に育ちながらも、高い知能や知性を持つようになったと言えるでしょう。
参考文献